不必要性とは変な単語だが、「必要ではないこと」という抽象名詞だと思っていただきたい。
まず福祉 (welfare, well-being) とは何か。手元の辞書によると、「幸福。特に,社会の構成員に等しくもたらされるべき幸福。」とある。
では幸福 (happiness, well-being) とは。これについては「不自由や不満もなく,心が満ち足りていること(さま)。しあわせ。」となっている。
以上のような記述があるわけだが、ここではもう一つ踏み込んで「福祉とは他人を幸福にすること」と考えたい。これで「福祉社会」とか「福祉制度」、「福祉施設」などの概念を説明できる。
他人を幸福にするというのはすなわち自分の幸福を他人に分け与えることだ。見方を変えれば自分を犠牲にすることである(多くの場合は部分的に、だが)。
福祉に参加する手段としては日本では納税が主なものである。ボランティア活動も当てはまる。種々の保険もそうである。
いっぽうで、福祉に対立する考え方として、他人への援助は一切しないという立場がある。自分が得たものはすべて自分のために使う。こういう概念に名前があるのかどうかわからないが、ここではいちおう「反福祉」とする。完全な形の「個人主義」と言ってもよいだろう。
野生動物は基本的に反福祉である。自分で餌を捕れなくなれば死ぬしかない。大自然の基本である。
これに対してヒトは高度な知能と感情を持ってしまったため、餌を捕れない個体がいてもそれを助けようとする。このことが社会的なしくみとなったものが福祉制度である。
ところが現実問題として福祉制度はその機能が高度になればなるほど費用がかかる。我が国でも高齢者福祉制度や医療福祉制度はその運用がかなり苦しい状態にある。
この費用はどういう状態までを福祉の対象とするかで大きく異なる。日本の場合は相当きめ細やかに、なるべく人が死なないような制度設計となっている。高齢者が食べられなければ粥→流動食→経管栄養というふうに生命を永らえさせるようになっている。だからかなり費用がかかる。これに対して他の国々では「自分で食事を食べられなければ水だけ」というところが多い。あとは死を待つ。もちろん回復不能の状態の場合である。日本以外の国に寝たきり老人がいないのは、上記のような取扱をしないからである。死にゆくものには不要な処置はしないということである。
しかし日本で食事が取れない人に世話をしないでいると「保護責任者遺棄致死」やひどい場合は「殺人」などの罪に問われる事になる。
昭和天皇が末期の十二指腸乳頭周囲がんとなったとき、驚異的大量の輸血をして死期を遅らせた。日本人の行動の仕方の典型例である。
では、福祉はあったほうがいいのか、ないほうがいいのか。
できるだけ完全な福祉国家を目指すという方法がまずある。一部の国に見られるように学費完全無料、医療費完全無料というような制度だ。だがこのような仕組みは当然ながらべらぼうな費用がかかる。そのため金持ちだと所得税が90%とか、消費税が30%とか、信じられないような割合となる。また、どうせ働いても税金で持っていかれるだけだからと能力ある者たちは考え、労働意欲が落ちていく。
かつて旧ソ連は福祉国家の究極の形として共産主義国家を打ち立てた。しかし人々は適当にしか働かなくなり、結局うまく行かなかった。中国など他の共産主義国家も同じことであった。
これに対して、できるだけ自己責任で生活して、努力して稼いだ者だけが「自己福祉」の恩恵を受けられるように、という反福祉の国もある。代表は米国だ。米国に留学していたある先輩は「金があればこれほど楽しい国はない。金が無いとこれほどみじめな国もない」と述べていた。医療福祉制度は日本に比べればかなり貧弱で、高齢者と貧困者用の公的保険があるのみである。当の米国人ですら本格的な医療保険制度の導入に反対している。「ロクに働かない奴らの病気を俺たちの保険料で治すのは我慢ならん」というわけである。しかも医療費がべらぼうに高いので、金のあるなしが命をただちに左右するのである。
日本ではどうか。福祉国家と反福祉国家の中間である。義務教育は無料となっているがこれは数冊の教科書と授業のぶんのみであり、あとはすべて本人持ち。医療は公的保険に入ればかなりの範囲をカバーできる。文句を言う人もいるが年金制度がある。生活保護制度であれば無料で心臓手術が受けられる。世界の国の中ではかなり良いほうである。特に医療は専門家が安い収入で働いてくれているので健康保険が赤字と言われながらもなんとかやっている。日本と米国で医師の収入はひと桁違うのだ。
いま問題になっているのは働かない人々の態度であろう。生活保護や障害年金などはそれ相応の理由がなければ受けることができない。たとえば名目上は病気で働けず生活保護を受けているものの中に、保護費を飲酒やギャンブルに使ってしまう者が存在する。依存症の専門家から見れば「それは症状なので仕方ない」ということになるが、一般の目は厳しい。
実際に生活保護の人に関わっていると常識はずれの言動をする人が多いことは確かである。これは経験したことがなければわからないであろう。診察室で「自分の子供を格闘技ファイターにしたいので、先生、寄付してください」としゃあしゃあと言ってのけた者がいた。その後も生活保護患者さんには嫌な思いをたくさんさせられてきたので、申し訳ないが生活保護指定医療機関の指定を私は返上してしまった。
こういう態度の人たちをけしからんと批判することは簡単である。だが、えてしてこのような失礼な態度は彼らの親に由来することも多い。まともな育てられ方をされなかった人たちである。人は自分の親を選ぶことができない。そういう意味では「仕方ない」という以外に言葉が見つからない。
疾患が重くてただ生かされているだけの人々というのも存在する。たとえば最重度の精神遅滞(知恵遅れ)の人たち。そういう患者さんたちが収容されている施設に当直のアルバイトに行ったことがある。だだっぴろい畳の部屋に何十人もの子どもたちが寝そべったり、座ったりしていた。それはまるで砂浜にいるアザラシの群れのようであった。もちろん彼らは会話することができない。手慣れた職員は子どもたち一人ひとりのニーズを察知し、処置をしていた。
あるいは、様々な疾患で慢性的に寝たきり状態の人もいる。脳死状態などはその最たるものだ。意思疎通がまったく不可能で、何をするわけでもなくただ生かされている状態である。
このような人たちは社会的には何も貢献しないし、生命維持のためにお金もかかる。だが、考えてみれば誰も好きでそうなったわけではない。まったくの不運だとしか言いようがない。自分がそのような状態になったとき「オレはなにも稼ぎ出せないし世の中にとっては不要だ。死んで構わない」と思えるだろうか。
相模原障害者施設殺傷事件の被告に欠けていたのはこの考え方である。障害者は不要;ヒトが社会的動物であるという観点に立てば「生きる価値はない」と感じるのも無理はないが、「本人が好きでそうなったのではない」ということも考慮しなければならない。
だからといって制度として何が何でも働けない人たちを優先にしていては財政が破綻してしまう。稼ぐ人がいなければ福祉は成り立たないのだ。この辺は為政者や役人、専門家に上手くバランスをとってもらうしかない。